2015年8月安全保障関連法案をめぐる「プリンシプル」再考

 昨年9月本websiteに「集団的自衛権行使」を考える、副題「『プリンシプルのない日本』白洲次郎」の今日的意義を公開した。次いで今年7月に安全保障法案強行行使を阻止し、日本国憲法体制の崩壊をくい止めよう、副題「ワイマール・デモクラシーの悲劇」の今日的意義を公開。

 自民党は、これまで憲法第9条の制約により「集団的自衛権行使」はできないとしてきた。それを安倍政権は180度ひっくり返し解釈改憲により可能とし、昨年の「集団的自衛権行」の閣議決定を行った。そして本年7月14日の衆議院特別委員会で安全保障関連法案の採決を強行、翌15日衆議院でこれを可決成立させた。

 これは正に「法秩序の連続性の破壊」であり、法学的にはクーデターだった」と憲法学者の石川健治・東大教授が、雑誌「世界」で語っている。

 現在、ほとんどの世論調査で安全保障関連法案(戦争法案)反対が過半数を占め、自公政権と国民との間で国権が割れる事態となっている。

 白洲次郎のいう「プリンシプル」に照らすと、国の最高法規の原理原則である憲法が「憲法は国民の国家権力に対する命令書」という立憲主義の認識が、本来憲法を尊重すべき安倍政権に根本的に欠落しているといわざるをえない。


 ここで白洲次郎(1902-1985)の「プリンシプル」について、小林秀雄(190-1983)が語った朱子学の影響とはなにか、孔子の論語から探ってみる。白洲が論語を知らない訳はない。
 論語を小林に託したのは白洲が含羞の人だったことを示している。また白洲が身につけていた武士道精神は、9年にわたる英中に知り合った英国の貴族が身に着けていたジョンブル(典型的な英国人)気質・騎士道にも一脈通じる。西洋の聞きかじりよりも日本人になじみの深い、東洋の知恵というべき論語が理解されやすいと考えたからだろう。
 「プリンシプル」について、次に昨年公開したwebsiteの白洲次郎の発言を再録する。

 これで思い出すことは、プリンシプルのことだ。プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。
 西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対条件である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい。小林秀雄が教えてくれたが、この教育は朱子学の影響によるものとのことである。残念ながら、我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる。
    (「諸君!」1969年9月号)から『プリンシプルのない日本』p217に転載
                 森松 幹治「集団的自衛権行使を考える」
                 
http://www.oryza101.com/html/syuudann.html

 もと九鬼藩の武士だった白洲家の(次郎)の祖父、泰蔵は廃藩置県令の下、県知事の要職を務め、後に銀行頭取なっている。家老職儒家との文献もあることから、いわば九鬼藩の頭脳だったのだろう。
                     鶴見紘 白洲次郎の日本国憲法
           
第1章「プリンシプル」の原点第6刷 光文社 2007.8


論語とは
 中国、春秋時代の思想家、哲学者である孔子( B.C.552-B.C.479)と高弟の言行・思想のエッセンスをまとめたもの。古くから中国及び周辺諸国、日本で、為政者の政道を行う基本として学ばれてきた。

 以下、Web漢文大系http://kanbun.info/keibu/rongo0108.htmlを抜粋
現代訳は下村湖人(1884~1955)による。
論語 学而第一 8
01-08 子曰 君子不重則不威 學則不固 主忠信 無友不如己者 過則勿憚改
書き下し文
 子曰く、君子し重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者ものを友ともとすること無かれ。過ちては則ち改あらたむるに憚かること勿かれ。
現代語訳
 先師がいわれた。道に志す人は、つねに言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぼく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。

論語 為政第二 1
02-01 子曰 爲政以徳 譬如北辰居其所 而衆星共之
書き下し文
 子曰く、政を為すに徳を以もってす。譬えば北辰の其の所ところに居て、衆星の之れに共うが如し。
現代訳
 先師がいわれた。徳によって政治を行なえば、民は自然に帰服する。それはあたかも北極星がその不動の座にいて、もろもろの星がそれを中心に一糸みだれず運行するようなものである。

論語 為政第二 3
02-03 子曰 道之以政 齊之以刑 民免而無恥 道之以徳 齊之以禮 有恥且格
書き下し文
 子曰く、之を道くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免がれて恥無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格し。
現代訳
 先師がいわれた。法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、幸にして免れさえすれば、それで少しも恥じるところがない。これに反して、徳をもって民を導き、礼によって秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、みずから進んで善を行なうようになるものである。

論語 為政第二 19
02-19哀公問曰 何爲則民服 孔子對曰 舉直錯諸枉 則民服 舉枉錯諸直 則民不服
書き下し文
 哀公問うて曰いわく、何を為さば則ち民たみ服せん。孔子対て曰く、直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、民服せん。枉れるを挙げて諸これを直きに錯けば、則ち民服せず。
現代訳
 哀公がたずねられた。どうしたら人民が心服するだろうか。先師がこたえられた。正しい人を挙用してまがった人の上におくと、人民は心服いたします。まがった人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません。

論語 為政第二 22
02-22 子曰 人而無信 不知其可也 大車無輗 小車無軏 其何以行之哉
書き下し文
 子曰く、人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり。大車に輗無く、小車に軏つ無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。
現代訳
 先師がいわれた。人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進ができよう。人間における信もそのとおりだ


 安倍晋三首相が本法案にかける信念は、孟子の公孫丑章句上 二(その一)からきているのではないか。

孟子(B.C.372-B.C.289)
公孫丑章句上 二(その一)
現代語訳
 公孫丑が孟子に問うた。
 公孫丑「先生が斉の宰相になられて道を行えばこの国を覇者王者となすのも自在だというのは、いまさら怪しむに足りません。ですが、そのような重責を担うと、心が動揺したりはなさらないのですか?」
 孟子「いや、余は四十歳になると、心が不動のものとなった。」
 公孫丑「うーん、そうすると、先生は孟賁(もうほん。戦国時代の勇士)をはるかに上回っておられますね!」
 孟子「何ということはない。告子(こくし。孟子の同時代人の論敵。詳細不明)は余よりも前に『不動心』の境地に至った。」

 公孫丑「つまり『不動心』を持つのにも、方法があるというのですか!?」
 孟子「ある。二人の勇士の例で譬えようか。まず北宮黝(ほくきゅうよう。よくわからないが、斉の勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、皮膚は張り詰めてたわまず、目はいかなることにもたじろがず、自分の毛一本抜かれただけでも市場で撻(たつ。ムチ打ち刑。ほとんど半殺しにするほど厳しい刑)の刑にさらされたかのような屈辱と受け止める。

 褐寛博(かつかんぱく。毛布を使ったゆるゆるの上着。住所不定者の着る賤服)の輩にやられても許さないし、戦車一万台を抱える大君主にやられてもやはり許さない。そのような大君主を刺し殺すことなど、褐寛博の輩を刺し殺すぐらいにしか思わない。諸侯を何も畏れず、悪口を受けたならば必ず報復するというようなものだ。次に、孟施舎(もうししゃ。同じく勇士らしい)が心に勇気を養うやり方は、『それがしは勝てない相手にも、勝てるかのように挑みかかる。敵の強さを計算してから進み、勝算がついてから戦うのは、これ敵軍を恐れる者だ。(勇者ではない。)それがしは必ず勝とうとしているのではない。

 ただ敵を恐れないだけだ』という彼の言葉どおりだ。孔子の弟子で言うならば、孟施舎は曾子に似ているだろうか。そして北宮黝は子夏(しか)に似ているだろうか。この二人の勇敢は、どちらが雌雄ともつけがたい。だが孟施舎の特徴として、「気」をよく保ったことを挙げるべきだ。しかしそれよりも上がある。昔、曾子が弟子の子襄に対して、『君は勇敢を好むようだな。だが余はかつて大勇とは何かを孔先生にうかがったことがある。先生はこう言われた、

 自分で内省して正しくないと判断したならば、褐寛博の輩に挑発されても余は進まない。
自分で内省して正しいと判断したならば、相手が千人万人であろうとも、余は進む。とな』と諭した。孟施舎は「気」をよく保って勇敢ではあったが、曾子が心に主義をよく保った勇敢にはかなわない。
     我読孟子http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius03-02a.htmlを抜粋

 仮にそうだとすれば、一知半解(一つの知識しかない上に、半分しか理解していないこと)とはこのことだろう。論語読みの論語知らず。
論語 学而第一 8 後半部分 「人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」

 安倍首相が、真に論語を読んで政道を行いたいというのであれば、これまでの「プリンシプル」にそぐわない政治手法を止め、道理に外れた安全保障関連法案などを直ちに取り下げ、国民の声を謙虚に聞くべきだろう。