2011年8月御嶽渓谷

7月4日午前10時晴、JR沢井駅対岸の寒山寺駐車場に総勢14名が集合。今日は御嶽渓谷を散策しながらのデジカメ撮影会である。今年は例年に無く梅雨明けが早かった。実感では7月1日から晴の日が続き、すでに梅雨が明けていた。今年の小笠原高気圧の勢力が強く、早々に梅雨前線を押し上げていたのだろうか。
(参考:気象庁梅雨明け情報、今年は7月9日、昨年7月21日、平年7月17日)

書家の田口米訪が明治18年(1885)に中国の姑蘇城外の寒山寺を訪れた際、主僧の祖信師から釈迦仏木一体を託され帰国、その後、昭和5年(1930)に小澤太平氏(地元篤志家)の協力により、中国のそれにちなんで建立された。当時の院展級の大家により描かれた格天井は、いまも鮮やかさを保っていた。当初の梵鐘は、第二次大戦中に供出されたが、昭和40年(1965)に鐘楼とともに再建。
 
観光案内より抜粋

大元の寒山寺は中国で創建された。寺名の由来は、風狂の人寒山がこの地で庵を結んだという伝承にちなむ。この人物は寒山拾得図でも有名である。また、中唐の詩人で政治家でもあった張継の七言絶句「楓橋夜泊」によって広く知られている。この詩は都落ちした旅人が、蘇州西郊の楓江にかけられた楓橋の辺りで船中に泊まった際、旅愁のために眠れぬまま寒山寺の鐘の音を聞いたという様子を詠ったものである。
 
楓橋夜泊 Wikipedeaフリー百科事典より抜粋

楓橋夜泊
月落烏啼霜満天、
江楓漁火対愁眠。
姑蘇城外寒山寺、
夜半鐘聲到客船。

人口に膾炙した旅愁の名作。起句は、月が沈んだ暗闇、冷え冷えとした夜気、悲しげな鳥の声、という色彩のない黒々とした世界。承句で、岸の楓と川の漁火という色彩が点ぜられる。漆黒の闇に中に滲むような赤である。「愁眠に対す」はなにげない表現だが、孤独な思いを巧みに詠出。そして、夜気をふるわせて響く鐘の音が、起句の鳥の声とともに聴覚に訴えかけ、いっそう旅愁をかきたてる。
 
漢詩をよむ 秋の詩100選 石川 忠久

この鑑賞は、詩の感興をみごとに写し出し見事である。「楓橋夜泊」は約60年前の中学時代の漢文で習った記憶がある。声を出して読まれた先生の横顔が思い出される。韻をふんだ詩は、調べとなって深くこころに刻まれる。すべからく詩は声調を第一等とする。

倭建命が各地に遠征を続け、ふるさと大和を目前にして亡くなる直前に歌ったものに次のようなものがある。だれにでもふるさとがある。洋の東西を問わず、おもいはふるさとに戻ってくる。

倭は 国のまほろば
やまとは くにのまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるはし
 倭建命 古事記歌謡31

切り岸に建つ寒山寺を頭上にして、渓谷に架かる約100m位長の吊り橋に足を踏み入れる。橋の中央から下を覗くと結構な高さだ。足がすくむ。釣り人が川の中に入り、釣り糸を流れに投うじている。足元がすべると流されかねない。釣り人の防水着の中に水が入ると身動きができず、溺死することがあるという。
橋のたもとの小沢酒造の茶店を右手にみて、上流へと歩をすすめる。

今日は月曜日なので人出がすくないようだ。ここは渓谷で涼しいせいかアジサイがまだ花盛りだ。歩くにしたがって渓谷の景観が大きく変わる。下流の遠方の山腹には山里がみえる。上流には遠くの山はかすみ、近くにはしたたるような夏山がかさなりあってみえる。

対岸には親子連れが川原でボール投げをして遊んでいる。離れたところでは、青年がしきりに大岩にとびつき登ろうとしている。また、岩に座ってじっと流れをみている女性がひとりいる。上流からカヌーが一艘下ってきた。川幅が狭いところでは激流となり一瞬のうちに眼前を通過していく。休日になるとカヌーが沢山でるそうだ。

御嶽橋に近づくと対岸に玉堂美術館がみえる。玉堂は戦中、この地に疎開して土地の人とも親しみ、そのまま定住した。四季おりおりの御嶽渓谷の風景、山村の暮らし。山水画の景色がここにある。玉堂の画風は平明・清雅で、どこか懐かしい大正・昭和の日本の風景や人の営みを写しとっている。こどもが小さい頃、家族で一度ここを訪れたことがあった。その時買い求めた色紙が家に残っている。

釣り人の 膝の上まで 夏の川 幹治