2011年3月白内障手術

立春を過ぎるころになると世情に杉花粉の話題がのぼる。わたくしに杉花粉アレルギーの症状がでたのは、もう30年以上も前になる。例年、春一番が吹き始める頃になると真っ先に目がかゆくなる。そのうちに症状が進み鼻水・くしゃみが出て、夜中にも起きだし鼻をかんでちり紙の山をつくることになる。桜が散り始める頃になってようやく症状が少し軽くなる。

春の約3ケ月間あまりは、わたくしにとって魔の季節だ。若い頃は症状がひどくて耳鼻科に通ったこともあった。最近では目が痒くなるぐらいで済むようになり、この季節を眼科の目薬と飲み薬で切り抜けるようになった。

一昨年、左目が霞みだしたので眼科の検査を受けたところ白内障と診断された。白内障は目の水晶体の奥に白い膜ができ、そのために霞んでみえる症状だ。先生の診察では、目薬を注せば少しは進行を遅らせることができるが、完治を目指すには目の水晶体を人工のものにいれ替える方法があるという。最近、この手術をする人が多くなり、これによってよく見えるようになったという話はよく聞く。手術は日帰りでもできるようだ。

わたくしは1月と8月に特別な行事を入れていない。そこで昨年8月に手術しようと予定したがいろんなことが重なり、結局暮12月検査、翌1月手術ということにした。今年に入って何回か検査を受け、先に左目、右目を1週間後に手術することになった。最初の手術は1月17日。わたくしは申込が遅かったため、手術は午後の最後になった。

手術を受ける人が4・5人手術準備室に入り、消毒から始まって血圧測定、点滴による局部麻酔などが施される。手術は約15分位、麻酔をするのであまり痛くないといわれる。手術の間、気を紛らわせるために音楽を耳にイヤホンをかけて聴くことになる。わたくしはモーツアルトを選んだ。荘重なピアノ協奏曲20番が流れてくる。施術者の院長が散髪時と同じように寝ている患者の後頭部に座る。その周りを4人の助手と3人の看護婦が控えに取り囲む。

順番を待っている目の前で、わたくしの先の患者が手術を受けている。流れ作業のように手術が次々進む。術中は目に強い光を当てられているので術中は音楽を聴く余裕などはなく、どうしても体が緊張で強張り力が入り、早く終ってくれることをばかり考えていた。

手術が終ってから1日にどのくらいの手術があるかと聞いたところ、平均15・16名くらいとのことだった。これまで約1000名以上の手術実績があると聞いていたが、この調子で行くと、年間どの位に人数になるものか。患者のほとんどが60歳以上で、女性の方が男性よりも多いようだ。手術後、眼帯をして妻と一緒にタクシーで家に帰る。翌日、眼帯を外すために再び眼科に行く。

看護師さんが眼帯を外して目をガーゼで拭ってくれたので、ゆっくりと目を開ける。いままで霞んでいた左目に明るい光が差し込み、周囲が雨あがりのように鮮明にくっきりと見える。このシャープな目は「鳥目虫目」というべきか。老年になって幼児のような新鮮な目をもらったようなものだ。有り難いことだ。

生き物にとって目は外の情報を得る大切な器官だ。普通、見えることはごく当たり前に考えているので、見え難くなってはじめてその有り難味がわかる。人間の目の水晶体は、遠くを見るときに伸び、近くを見ときに縮んで自動的に焦点を合わせる。白内障の手術では生身の水晶体を取り出して人工水晶体に入れ替えるため、人工水晶体は伸び縮みしない。

そのため、人工水晶体は患者の希望によって、遠近のいずれかに合わせたものを入れることになる。わたくしは室内では眼鏡をかけないで、外出する場合にかけることを希望した。残った右目は1週間後の24日に行った。術後は3種類の目薬を目に1日に4回、朝昼晩寝る前を約半年続けることとなる。白内障は、加齢によってほとんどの人が程度の差はあれ発症するらしいので、今後もこの手術をする人はますます増えてくるだろう。

 白内障手術
あたらしき目を たまはるる 二月かな 幹治


2010年2月19日10時、「夕やけ小やけふれあいの里」夕焼小焼館、前田真三ギャラリーにて開催中の前田真三写真展「風景遍歴 PARTV 写真家の軌跡」1974年(はじめての写真集「ふるさとの四季」を主体とし、八王子市下恩方村の農村風景をモノクローム判で撮影したもの)で鑑賞する。

前田真三写真展共通パンフレットより転載。

前田真三(1922-1998)没後12年企画。モノクローム作品による「風景遍歴」シリーズ第5弾。1957年から1987年まで30年にわたり撮影された作品を編年体でたどり、前田真三のモノクローム写真を集大成する。

前田真三年譜パネルより転載。

1936年 2人の兄の影響で写真をはじめる。当時の人気カメラ、ベビーバールを買ってもらう。野鳥に熱中。府立織染学校(現都立八王子工業高校)卒業。柘植大学開拓科入学。柔道と絵画をよくした。

1943年 戦局悪化で繰り上げ卒業。海軍予備学生として館山砲術学校に入隊。海軍中尉となるもスマトラ島サパンで終戦。復員。その後2年間をふるさとで過ごす。

1950年 日綿實業(現ニチメン株式会社)入社。結婚、世田谷に新居。翌年、長女誕生。長男誕生。バラ栽培に熱中。オリンパス35ミリ判を購入し、花や家族の記念写真を撮りはじめる。山歩きを再開し、写真熱も高揚。マミヤプレス、マミヤC2、ニコン、キャノンなどを購入。

1964年 リンホフスーパーテヒニカ4×5一式を購入。翌年、17年間勤務した日綿實業を退社。株式会社丹渓を設立し、写真活動に入る。日本列島縦断撮影行を約3カ月にわたり敢行。その帰路、美瑛・上富良野の丘陵地帯に日本の新しい風景を発見。この頃よりカレンダー、CMボスタ・等に多数の写真提供がはじまり、会社も軌道にのる。

1974年 はじめての写真集「ふるさとの四季」刊行。1970年代前半までモノクローム判で撮影。

1985年 奥三河に通いはじめる。8年後作品集に。4×5、6×6に加え8×lO判の撮影も開始。約2カ月間、英国各地を取材。全国カレンダー展で各賞受賞、新開広告により朝日広告賞受賞。上高地に取り組む。2年後作品集に。日本写真協会賞年度賞を受賞。「奥三河」で毎日出版文化賞特別賞を受賞。北海道美瑛町に写真ギャラリー拓真館を開設。丘陵地帯周辺のハイビジョン撮影もはじめる。自らの手で拓真館周辺の環境整備を行う。初年度約7万人の入館者が訪れる。

1992年 ハイビジョンレーザーディスクソフト「四季の丘・春夏秋冬」(ソニー)発表。朝日新聞日曜版に「前田真三が撮る自然の色と形」を1年間連載。この年、拓真館入館者約30万人。勲四等瑞宝章受章。

1998年 CDROM作品発表。11月21日、心不全により急逝。享年76歳。
美瑛町特別功労者章受章。
日本写真協会賞文化振興賞を受賞。

写真評論家・島原学の前田真三「しられざる歴史Ⅰ~Ⅳ」パネルより、前田真三の語録と写真評論家島原学の印象深い文章の一部を転載。

「自分は写真を始めた少年時代から、プロにいたるまで自然の風景に向かう姿勢にかわるところなく、日々の風景をひとつひとつ積み重ねるように写真を撮ってきただけだった。」
「写真を撮り始めた後の人生より、前の人生の方が写真を撮るための人生であったような気がする」前田真三語録

子供のころ好きでつづけてきた絵画、ことに日本画の影響がある。日本画のシンプルで平面的な輪郭と画面構成は、多くの美術評論家が指摘しているようにモダンなデザイン感覚に通じている。前田の作品の人気が衰えない大きな理由はこれだ。写真表現の質が極めて日本的でありながら、モダンに洗練されているのだ。その洗練は写真家の天性のつかみ方のうまさ、日本画で培った抜群の画面構成力から生まれている。島原学の文章

今回の写真展には、1965年プロの写真家として独立する以前のアマチュア時代からの作品が含まれている。戦前の下恩方村は八王子の北西部に位置し、北高尾山系を源流とした北浅川の支流が山地から平野に入る農村地帯だった。真三は林業を営む旧家の三男に生まれた。(現在の下恩方地区は陣馬街道沿いに住宅が多く建ち、田畑が点在している。)

戦前の農村は、一家にこどもからお年よりまで家族が大勢いて、夫々が分担して農作業や家事などの仕事を受け持っていた。下恩方村も同様に、水田作と畑作に加え養蚕や林業が主な産業だったことだろう。当時の真三の写真には、農作業している人々や老若男女の交歓している姿が温かい眼差しで撮られている。

持ってうまれた人の本性というものは、しょせん終生変わることはない。真三の写真の根底にもこれがある。どんな芸術も突き詰めると自分探しになる。人のまねをしない究極の独自性には普遍性がある。