2011年11月大鹿村と中央構造線

10月下旬に入り、久しぶりに俳句の古い仲間と長野県伊那の大鹿村に2度目の1泊吟行にゆく。わたくしは10年前に俳句結社から離れ、それ以降どこにも所属せず月1回俳句をつくり本サイトの「鳥目虫目」に掲載している。仲間とは前に入っていた結社の人たちで、これまで年1回の1泊吟行を重ねてきた。今まで俳句を続けてこられたのもそのお陰である。

今回、新宿発飯田行き高速バスにて、新宿、日野、八王子からそれぞれが乗り松川ICまで行き、そこからは鹿塩地区の宿のマイクロバスで小渋川沿い約1時間をかけて村に入る。村は大河原地区と鹿塩地区の二地区で構成されている。初日は大河原地区、翌日は鹿塩地区を宿のバスで回ってもらった。正午ごろに到着後、大河原地区の崩落災害跡地につくられた大西公園をまわり、その後中央構造博物館を見学する。

中央構造線は日本列島の関東から九州まで続く大断層である。その線上が南北に縦断するところに大鹿村が位置している。大鹿村中央構造博物館は構造線上に設置されている。構造線の東側と西側では全く別の地質が接している。東側の塩川(塩湯前)と西側の小渋川の流域を歩き、それぞれが青磁色と白色の川原であることが観察できた。

翌日、午前9時宿を出発し、塩川沿いから山道に入り、葦原神社、大池高原を経て黒川牧場へゆく。葦原神社の前で一時停車する。道路脇から少し入ったところに「御柱」の立て札が立っている。その向うに真新しい注連縄がかかった一の鳥居が見え、その奥に二の鳥居と拝殿が望まれた。車を出してくれた宿の主人の話によると、村の言い伝えでは諏訪大社の大元はここだという。帰ってから調べてみると下記のような記載があった。(どういう訳か、村のパンフレットには詳しいことが書かれていない)

大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社は明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社といわれていた。諏訪大社の祭神である建御名方神が建御雷神との力くらべに負けて出雲から洲羽(諏訪)に逃げる際に一時的に滞在していたとする説がある。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷(諏訪大社:全国の諏訪神社の本社)の最上位の席は鹿塩であったことなどいくつかの傍証となる事実がある。
葦原神社:Wikipediaフリー百科事典

さらに車を走らせると見晴らしのよい大池高原にでる。手前の山々は紅葉をしはじめ、遠くには青みがかった木曽駒を盟主とする中央アルプスを望むことができる。ここ大鹿村は山地が97%を占めており、ここでもご多分にもれず過疎が進んでいる。大鹿村は近年はやりの町村合併に組みしていない。
北海道美瑛町の呼びかけで、大鹿村も入って「日本で最も美しい村」連合(翌年NPO法人認可)7町村が2005年に発足した。現在、参加39町村が参加。
(わが八王子出身「風景写真家前田真三」が、美瑛町の風景に接して感銘して写真を撮り、のちにその地に写真ギャラリー拓真館を設立した)

1 直近の国勢調査の人口が、概ね1万人以下であること。
2 人口密度が1km2につき50人以下であること。
3 景観、環境、文化に分類される地域資源が2つ以上あること。
・地域資源が存在すること。
・地域資源の持続的な活用への努力がされていること。
・条例などの公的手段により地域資源が保護されていること。
4連合が評価する地域資源を活かす活動があること。
・美しい景観に配慮したまちづくりを行っていること。
・住民による工夫した地域活動を行っていること。
・地域特有の工芸品や生活様式を頑なに守っていること。
日本で最も美しい村連合:Wikipediaフリー百科事典

最近では山村生活を求めて移住してくる家族があるという。村には、江戸時代から続く地芝居(農村歌舞伎)が伝承されている。舞台は幕末から明治にかけて村内13ケ所に建立され、現在は4ケ所に上演可能な舞台が保存され、春と秋に歌舞伎が上演されているとのこと。歌舞伎を上演した集落の単位は50世帯とことである。厳しい山村の暮らしの中で、それだけのことを行ってきたむかしの村人のエネルギーには驚嘆させられる。これを伝え聞いた俳優原田芳雄が発案して「大鹿村騒動記」という映画撮り、本年7月に完成している。芸達者が揃い楽しい映画になっているようであるが、まだ見ていない。

現在日本の山村は、高度成長期に村から若い人が都会に流出して高齢化が進み、65歳以上の人口50%以上(限界集落)など過疎化が進んでいる。一方、日本経済は20年来経済が停滞して中高年の失業や若者の就職難が増えている。その中で東日本大震災が起き、若い層にも暮らしを見直そうという動きで出始めている。むかしの日本には貧しい中にも暮らしと伝統文化を大切にする人間らしい生き方があった。

大鹿村の「日本で最も美しい村連合」の取組みに若い人が共鳴して村に永住する人が出ているという。東日本大震災と福島原発事故を契機に、地球の資源を浪費して環境汚染を助長する経済成長もこれ以上必要ないという人が最近多くなってきた。

今から5年前エントロピーを知る機会に「地域主義」を唱道する経済学者玉野井芳郎の思想に触れた。そのことを思い出して「日本で最も美しい村連合」が玉野井芳郎の「地域主義」を体現しているのと思った。その主著作「地域主義の思想」(1979年農山漁村文化協会)の紹介資料を下記に転載する。

1 国が「上から」提唱し組織する「官製地域主義」と「内発的地域主義」とは明確に区別しなければならない。
地域主義の思想は、既存の国家体制を内的に再編成する原理を含んでいる。

3 「国家以前に自治体あることなし」という「伝来説」と「地方自治権こそが国権に先行する」という「固有説」とがあるが、これらは十分に並存するものと見てよい。
地方の時代とは諸地域の時代のことであり、諸地域の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な「憲法」、憲章、または条例を制定する時代のことであるといってよい。

5 老人ホームという名の奇怪な社会制度に、現代社会の病根を見いだす。
6 農村に広がる過疎地帯で、生業の後継者問題が深刻の度を深めているときに、都市では失業という名の社会問題が、企業体制の枠内だけで依然として処理されようとしているにすぎない。すでにイギリスやアメリカでは、社会人類学や文化人類学の分野において、借地農業者としてのfamerではなくてpesant economy、さらにpeasantry as a culture  といったアプローチが本格的に取り上げられるようになってきている。こうした小農の位置づけを、従来の近代化とは異なるアプローチで、もういっぺんとらえなおす必要があるのではないだろうか。

7 地域を基層から築いていって、そのうえで初めて近代社会、ないし国民国家ができあがるというふうに考えてはならない。われわれにとって、18?17世紀に始まった近代社会ないし国民国家はすでに前提としてある。問題は、その歴史的前提の形成を通して壊れていった部分、または放置しておけば壊れていく部分を、どうやって再生させるかというところから出発することにある。
8 地域主義というのは「開かれた地域主義」でなければならない。それによって、あるべき社会の位置、あるべき国家の位置を再構築していくというところにポイントが置かれる。

地域主義とは、人間と自然との共生の関係をふまえてとらえ直すという新たな思想的視座である。
10 場所と時点の特性を主張する地域主義において原理的に重視されるのは、とりわけ水系と土壌系のあり方である。系と言ってしまえば誤解を生むかもしれない。系とはシステムのことであるが、生活者としての人間とのかかわり合いを具体的にどうなっているのかということが重要である。

11 生命の世界を如何に導きだすかということが大事である。農業は生命の世界に属す。この農業から出発してその彼方に非農業としての工業の世界を考えることはできる。けれどもこれを逆にして、工業の世界から出発して果たして農業の本当の姿をどれだけ導きだすことができるか。ましてや非生命系にかかわる工業の世界から生命系そのものに到達するのはほとんど絶望的に困難なことである。
12 アダム・スミスによれば、国民の富とは、貨幣でもなければ単純な生産物でもなく、年々の労働によってつくりだされた生活の必需品及び便益品である。それは農作物に他ならない。
13 定着農業の成立こそ、人間動物の社会的作業にふさわしい文明の生誕であったととらえ直さなければならないように思われる。

14 農業というのはおそらく生命系=生態系を根底とするものであり、この生命系=生態系を自覚することは、人間がまさに自分自身を認識する第一歩である。
15 ふつう文化というと、芸術や美術や文学といったような精神文化が考えられて、農作物や農業などは文化圏の外の存在と見なされるが、これは大きな間違いである。農耕文化こそは文化財に満ち満ちたものだ。農具や農作技術は原始的どころか全世界のほとんどの農耕民の生活の智恵を驚くばかり高めたものであって、その一つ一つに起源があり、伝播があり、発達と変遷があるのであり、そのすべてを解き明かすことはとりも直さず人類の全歴史を解明することになるほどだ。(中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書を参照)

16 農地という概念の中に水は暗黙ではなく明示的に含まれるべきものだ。
17 共生の思想にもとづいた新しいテクノロジーが育っていくであろう空間的場所は、国の中央ではなくて地方的地域です。地域を単位にした産業や技術や文化を考える、これが日本においてこれからもう一つの文明を追求する私たちの国民的テーマであるということができる。
地域コミュニティ論:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisanti.html

大鹿村は、今や時代の最先端を行っている。これに賛同して長々と玉野井芳郎の「地域主義」を引用した。以下も同様。

中央構造線 へりふみ秋を おしみけり 幹治



大鹿村の地理
南アルプスと伊那山地に挟まれた山間の土地。中央構造線が村内を南北(国道沿い)に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流している。 村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠の難所である。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入している。

村の中心は小渋川と青木川の合流地点である上市場・下市場(大河原地区)と、鹿塩川と塩川の合流地点である塩河・塩原(鹿塩地区)の2か所に分かれており、このため村役場は、小渋川と鹿塩川の合流地点である落合にある。 鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。

中央構造線を挟んだ両側の地質が異なるため、両側の地形も異なる。 東側(西南日本外帯)は三波川変成岩からなり地すべり地形が多数分布している。この地滑り平坦地上に集落が分布している。 西側(西南日本内帯)は領家変成帯からなり崩壊地が多数分布している。こちらには平坦地がほとんど分布していない。
大鹿村:Wikipedieaフリー百科事典


下記の図面や解説は「南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク」から引用した。

遠い南の海からやってきた南アルプスの岩石
南アルプスの大部分は、昔の太平洋プレートの大部分が遠くに海から運んできた岩石や、沈み込み口の海溝を埋めた堆積物が固まった岩石でできています。これらの岩石は海洋プレートが沈み込む時に剥ぎ取られて大陸プレートに付け加わったもので「付加体」といいます。南アルプスの主稜線は1億年前ごろの中生代白亜紀でできています。

海洋プレートは中央海嶺で誕生します。中央海嶺や火山島で海底にマグマが湧き出し大洋底で玄武岩が造られます。海洋玄武岩は、水を含む緑色の鉱物が生じていることが多く、そのような岩石を「緑色岩」といいます。石灰岩は、火山島のさんご礁や石灰質の殻をもつプランクトンの死骸が海底に堆積してできます。
チャートは灰質の殻をもつプランクトンの死骸が深い海底で堆積してできます。無色透明の石英でできたチャートは、わずかな不純物でも染まりやすく、酸化鉄を少し含んで赤く色づいたものを赤色チャートといいます。これらの海洋玄武岩・石灰岩・チャートは遠洋性のチャートとよばれます。

海溝では、遠洋性の岩石の上に、陸地から流れ下った砂や泥が堆積します。これらの岩石は、沈み込み先で海洋プレートから剥ぎ取られて付加体になり、大陸プレートの一部になり、大陸は大洋に向かって成長していきます。

急速に隆起している南アルプス
南アルプスの地域は、300万年ごろに侵食されて平地になっていました。急速に隆起しはじめるのは100万年前ころからで、現在でも年に1年で30mm以上の速度で隆起しています。断層の活動により、鳳凰三山から甲斐駒ケ岳の稜線と甲府盆地の釜無川との間には約2000m以上の急崖が生じています。上昇する山地の内部では、高温多湿な気候のもとで、強い侵食力で深いV字谷が掘りこまれています。また、山体が自分の重さで崩落してできる多重山稜の地形などもが見られます。

中央構造線
この断層では、約1億年前の白亜紀にできた領家変成帯(日本海・西側)の岩石と三波川変成帯(太平洋・東側)の岩石が接しています。領家変成帯は、内陸側で、プレートの沈みこみにともなう熱いマグマの上昇による高温低圧の変成作用を受けた岩石からなります。三波川変成帯は、海溝側で、冷たい海洋プレートの沈みこみによる低温高圧の変成作用を受けた岩石からなります。

その後、二つの変成帯の間で横ずれの断層運動がおきました。断層運動による移動距離は約200kmといわれ、最大2000kmとも推定されています。この大規模の断層運動により、二つの変成帯の間にあった中間帯は失われ、現在は中央構造線を境界として二つの変成帯が接しています。

日本列島は、大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う場所で、プレートの沈み込み帯でつくられてきました。南アルプスは、内陸の火山帯と海溝の間で生じた、過去から現在至るいろいろな現象の痕跡や証拠がよく見られる場所です。
http://mtlwebmusesub.web.fc2.com/subindex08geopark.htm