2010年12月南大沢

撮影日に雨となり撮影中止となった月が、わがデジカメ班で今年3回もあった。おまけに今年の締めのデジカメ作品展作品持込時も雨だった。また、夏には異常気象の猛暑が続き、水不足でわたくしの畑の里芋など農作物の出来も良くなかった。

11月15日晴れ、午前9時40分京王相模原線南大沢駅に全員集合。今日は久しぶりのデジカメ撮影である。ここには日本離れした欧風な都市景観がある。欧州旅行時の都市の撮り方の参考になるということが、ここ南大沢をデジカメ撮影地に選んだ理由である。

駅前は地上二階が車が入らない部分になり、駅前左右に広い歩道が開け大型店舗が建ち並ぶ。地上部分には車道や電車の線路を通し、人と車の通行ゾーンを分けている。歩道右手奥の広い階段の上に首都大学東京のシンボル塔があり、その左右に校舎が連なり、その手前が桜並木になっている。また、歩道左手方向奥の車道の先に円形広場があり、その右手に広い階段が続き、その丘の上に公園が広がっている。

駅前から地平を遠望すると様々な形式のマンションが建ち並んでいる。ここは広大な敷地をつかい、様々はマンション・公共施設が公園の中にゆったりと配置されている。南大沢は、東京のベットタウンとして開発された多摩ニュータウンの一画に位置している。ここに住んでいる住民はほとんどが都心に勤めをもっている。

駅前歩道に乳母車を押す若い主婦がゆったり歩き、登校中の大学生は足早に校舎に向かっている。いずれもセンスの良い都会風の服装をしている。
駅前から撮影に入る。建物や人物は絵になる被写体だ。しかし、人物を前から撮ると肖像権の侵害になることがあるので、正面を避け、後ろ姿か遠くの人を撮るようにと指導者から注意を受ける。ここは広い歩道や螺旋歩道に樹木が巧みに配置され、何処を撮っても絵になる。問題は構図をどうするかだ。

ここには未来都市を志向した都市景観がある。いままでのデジカメ撮影は自然を主体にして人物を点景とした撮り方が多かった。ここでは都市景観が主体となり、それに自然や人物をどのように組み合わせるかがポイントになる。人物や動物が入らない写真は余程訴えるものがないと絵にならない。これまでとは異なった構図の切り取り方が必要だ。公園を歩くと大分紅葉が色づき、歩道に落葉が散らばっている。若い親子連れ、祖母と孫、近くの下校中の中学生などが歩いている。

童んべが こぶしひろげる 冬紅葉 幹治


田園都市考

田園都市ということばがある。田園都市とは都会での仕事の疲れを自然につつまれた田園の住まいで癒す都市ということが本来の趣旨であろう。田園都市は都市消費者と近郊農村生産者とが交流し、生活空間を共有するもの本来の姿である。近年、人口は都市に集中する。人口が多くなると農村との結びつきが薄れてしる。多くても人口約5万人位が限度ではないだろうか。

また、温室生産・冷凍技術・物流が発達し、全国各地や世界各国から農産物が配送されて店頭に並べられようになった。消費者と生産者の距離が離れ、温室栽培が多くなり作物の旬がわからなくなってきている。かくしてどの都市も田園都市本来の姿から遠く離れたものなっている。多摩ニュータウンと南大沢の都市計画について記事があるので、参考に以下転載する。

世界の都市に学ぶ多摩ニュータウンの未来
多摩ニュータウンの都市計画は、英国の田園都市構想に範をとったといわれている。英国の田園都市は20世紀になって爆発的に増加したロンドン市の人口緩和のために、ハワード(1850~1927)によって体系化され、1903年に最初の田園都市として実験的に開発されたレッチワース市によって始まった。レッチワースは、産業革命以降に生まれたスラム街の悲惨から人々を救うために、都会と田舎の良さを併せ持つようにと提唱された新しい都市である。「都会と田舎の結婚」がコンセプトであり、市街地と、その周りを囲むグリーンベルトを融合させることに成功している。この田園都市の考え方とその都市像はその後急速に全世界へ伝播していった。

ハワードは田園都市の条件として・計画的に造られる職住近接の自立都市・緑に囲まれた小規模都市・土地は公有、という三条件を挙げている。現在英国内には20数カ所の田園都市が所在するが、いずれも自己完結性を有し人口4~5万名の規模である。

一方多摩ニュータウンは、東京の人口に対応し都市のスプロール化を防止するという開発目的は英国と同様であるが、現状は東京のベットタウンとしての位置付けに甘んじている。一つの例として多摩ニュータウン内における人口に対する雇用の割合は、レッチワース市が50%であるのに比して、多摩ニュータウンでは10%に満たない。即ち近代都市が必要とする「住む、憩う、学ぶ、働く」という四機能のうち、最後の働く場が無いのである。 多摩ニュータウンの問題点を総括すると、都市工学的には成功したが、人間工学的配慮に欠けた都市ということができよう。

この他にも、多摩ニュータウンには様々な問題が存在する。計画人口30万人の多摩ニュータウン開発が30年間で約70%進んだのに対して、ニュータウンの草分けであるレッチワースでは3.2万人の計画をようやく達成し、100年を超えた今3.3万人ほどで安定しつつ維持されている。都市が緩やかに成長している場合、小さなゆがみや多少の不調和は吸収され無理な状況や現象は見えてこないのだが、多摩ニュータウンの場合は一挙に同一世代を集めてしまったことで無理が生じている。

その一点目が、少子高齢化である。若年層が少ないために、全体的な活気がなくなっているのが懸念されている。また、開発当初の住宅では、高齢者が多く住んでいるにも関わらず、バリアフリー化が困難であることが問題視されている。資金的余裕がある人々は対処できるが、そうでない人々はそこに住み続けるしか選択肢はない。

二点目は、行政の一元化がされていない点である。マスタープランの段階で、行政の一元化は大前提であった。しかし現実には徹底されていないために、様々な不都合が生じている。交通の問題を例にあげる。多摩ニュータウンでは京王バスや神奈川中央バスが運行しているが、身近な移動を支える交通網として、多摩市では「ミニバス」の運行が市民の足になっている。しかしそれは多摩市の「ミニバス」であるために八王子には入ってこないのだ。車という移動手段を持たず、公共交通機関に依存する高齢者が多いということを考慮すれば、行政の区分けを越えた対応は可能なはずである。
http://keitaikisyuhen.livedoor.biz/archives/50012966.html

南大沢
現在の「南大沢駅」周辺である。多摩ニュータウン通りを境界にして第14・15住区を構成。現在のバス停では「大田橋(旧南大沢)」・「南大沢駅」一帯である。かつては「大沢」と称したが、今の八王子市北部の加住町の中にも「大沢」があったため、明治時代にそれぞれ「南」・[北」が名前についた。

多摩ニュータウン開発以前は大田川沿いや日向などに農家が点在していたが、ニュータウン開発時の全面土地買収による造成で、今のように広大な範囲に住宅等が整備された。駅開設直後は駅舎周辺一帯が更地であった。しかし、それゆえ「地区センター」として大胆に白紙開発が出来たため東京都立大学(当時、現・首都大学東京)の誘致や大規模なショッピングセンター等が立地し、公的施設として福祉センター・図書館・市民センターを複合した文化会館がある。また2009年4月、南大沢1丁目に地域を所轄する「南大沢警察署」が新設され、3丁目には消防署の建設計画がある。

1990年前後に公団が分譲し、統一感のある優れた景観から話題を呼び「BCS賞」を受賞していた「ベルコリーヌ南大沢」は42棟中20棟が施工に問題ありとされ建替えが行われている。
多摩ニュータウン・南大沢:Wikipedia百科事典