2009年8月ヤマユリ

先月、梅雨入り6月10日という気象庁予報に関連した文章を書いた。梅雨明けは平年より6日早く、昨年より5日早い7月14日との予報だった。関東の梅雨明け宣言から半月経過したが予報が外れ、いまだに曇りと雨の日が続いている。今年は夏に発生したエルニーニョ現象で太平洋高気圧の勢力が弱いため、梅雨前線を北に押し上げることができず日本列島に居座っているとのことだ。前線の影響で九州や中国地方では集中豪雨が頻発し、東日本では日照不足が続き野菜の育ちが悪くなり値段が高騰している。
この時期に長雨が続くと気温が25℃前後に下がり、晴れると一転して30℃以上にもなる。気温差が10℃以上にもなると体がついてゆけない。年とともに皮膚感覚が敏感になってきたようで、自然に涼しくなると一枚上着を重ねたりするになった。

梅雨入りの花がアジサイとすると、梅雨明けの花はヤマユリだ。30年ほど前、子供が小さかった頃、八王子の山野を歩くと自然に生えているヤマユリがよく見られた。今では余程探さないと見つからない。八王子の人口が増え、ヤマユリを持ち去る人がでてきたためだろうか。野草は家に持ち帰っても根付かないことが多い。野草は自然に生えている姿がよい。ヤマユリは、やや薄暗い雑木林の下草の中から抜きんでてひっそり咲いているのが一番好ましい。

わたくしの俳句の師石田勝彦は2004年7月9日に亡くなった。わたくしは、40代の後半、仕事とは別に趣味を身につけたいと思うようになった。俳句のセンターである俳句文学館を探しだし訪ねてみると、身近に俳句結社「泉」があることがわかった。すぐに電話をして自宅に訪ね、お会いしたのが「泉」代表の勝彦師であった。NHK俳句通信教育に半年出句した句を先生に見せると一応できているといわれた。そして句会に出席するように勧められた。それがわたくしの俳句との付き合いの始まりである。その頃の先生は60代後半でご壮健だった。

今のわたくしは60代後半なので、先生に出会った年になっている。俳句の世界に入っていろんな人との出会いがあった。俳句の世界では年齢・経歴・男女などは全く問わず、お互いが対等に名前で呼び合うところが面白かった。
俳句をやってよかったことは歳時記に親しむことができたことだ。歳時記は季節ごとに分類された膨大な季語を含くめた辞典のようなものだ。時候、天文、地理、行事、衣食住、農・狩、遊楽、自然、草花、樹木、虫・鳥獣などが入っている。最初の頃は、季節の移り変わりによる季語を追ってゆくのが精一杯だった。季節は毎年巡ってくる。10年位を過ぎた頃からようやく、季語が体に馴染んでくるようになった。

歩きながら吟行すると、向こうから季語が飛び込んでくる。それをメモして句にする。瞬間に掴み取って文字に移し変える。そこが短歌と異なるところだ。句会が始まると、先生は短冊を持ってこさせ、やおら句を直接書かれた。出稿するまで約1時間あるので、みんなはその間に10句位つくり、そのうち7句を出す。限られた時間に集中すると不思議なものでなんとかできる。もちろん推敲は十分できない。この緊張した時間の中で思いがけない言葉で出てくることがある。俳句は机の上でひねってつくるものではない。

俳句17文字の文芸である。他の文芸と違って説明を極力嫌う。意味のないものが良いとされている。その中から感じたものを17文字にする。言葉を選びぎりぎりまでそぎ落とす。使い古された表現は不要だ。上下・左右に見る角度を変えてみることも必要だ。表現の上では違った角度から言い換えると新しみがでる場合がある。自分だけの発見や新味がないと面白くない。

入会して4・5年を経過した頃から勝彦師の句会に月4回位出席するようになっていた。先生は同じところに何度も行く吟行会がお好きのようだった。鎌倉の江ノ島・腰越漁港周辺には幾度も通った。句会が終わると、申し合わせたようにみんなで地元の居酒屋に立ち寄った。江ノ島の店では注文すると大量な白子がでた。先生を囲んで話しをしたが、俳句の話題は少なかったような気がする。先生は奥様を亡くされているので、みんなとの食事が楽しみだったようだ。鎌倉の句会の帰りには八王子まで先生とご一緒した。その頃の先生は月に20回近くの句会に出ておられた。吟行する時には殆んどメモをとられなかった。

先生は波卿の直弟子だった。俳句は打座即刻の文学であると石田波卿はいっている。波卿をめぐる周辺のことなども聞いたものだった。句会での高得点はいつも決まって勝彦師だった。句会の句が総合誌に載ると推敲されて一段と味わい深いものになっていた。先生の句風は奇を衒わす、あくまでも写生に徹しておられた。一読、胸にヅシンとくるものが多かった。

先生の謦咳に接した13年間の句会は合計600回以上にわたる。わたくしにとってこの濃密な時間は貴重な財産だ。以前には先生という羅針盤があった今はない。句をつくると、自問自答して、先生ならどういわれるだろうかと思いめぐらすことがある。

その後、いろんな事情がかさなり、今は結社からは離れている。発表する場をもっていないのでほとんど俳句はつくっていない。「鳥目虫目」に掲載するため月一度、句をつくるのが精一杯だ。自分の句の良し悪しは自分では分からない。そこで、今は句をつくってからしばらく放っておき、充分自分を客観的にみられるようになってから読み返すことにしている。句会に出ていた頃は、出句した句を合評するが、最後の先生の講評は凄かった。一読で瞬時によい表現を示された。先生の頭脳はどうかっているかなどとみんなで、あきれたり感心したりしたものだった。

先生の句にヤマユリを詠っているものが見当たらない。先生の命日に昔の句友と小平霊園に行ったあとで、高幡不動に行き裏山を散策した。アジサイは既に終わっており、人出も少なかった。薄暗い裏山を登ってゆくと道の外れにヤマユリがひっそりと咲いていた。

やまゆりの しなりとどまる 勝彦忌 幹治


波卿名言集
俳句は文学ではない。
「鶴」(昭和十四年一月号)

俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、粛々又朗々たる打座即刻のうた也
「鶴」(昭和二十一年三月号)

勝彦語録
認識とはものの在りかたを詠むのである。これが写生である。
自分の本性は、抒情である。花は今年も咲くが、それは去年の花ではない。
そうしたものとして、花と向かい合う。それが自分にとっての抒情である。
自分の本性だからこそ、写生をする。


勝彦自選句
草々に三社祭の朝の露
眼が裂けてをる炎天の鴎かな
ホロビッツ指が寒しと言ひにけり
蝋涙を畳のへりにクリスマス
冴え返るとは取り落すものの音
浦びとの褌駈けして春の火事
新陵の鴨引く空となりにけり
瑞牆山を空に置きたる董かな
霞むならこの山のこの木の下で
枝あげてあげて白桃咲きにけり
走り茶の針のこぼれの二三本
黴のもの埃のものの中にあり
遅れたる足を引き寄せ蟇
新豆腐乗ったる板の雫かな
コスモスのまだ触れ合はぬ花の数
松茸を裂きて女身のごとくなり
すこしづつ風のさらへる今年藁
君が胸林檎を磨くためにあり
柊の花の下なる夜の土
大海の端踏んで年惜しみけり
亡き妻のしづかに坐る雪の椅子
刀工の火花暮しや龍の玉
寒風や砂を流るる砂の粒