2009年10月風の盆

往来の向こうから、かすかな「おわら」の音色がきこえてくる。やがて連なった編傘がゆれうごくのがみえる。ゆっくりと四五人の男女の踊子が手さばきの踊りをみせながら近づいてくる。黒地の法被に股引の野良着のいでたちの若い衆が、緩急をつけ豪快な手さばきで「かかし踊り」をしている。薄い茜色の着物に黒帯に赤い帯締めの若い女性が、しなやかな身のこなしで波打つようにかいなを返している。「おわら」には種まきなどの農作業の所作が取り入れこまれている。そのあとに三味線、歌い手、胡弓、太鼓がゆったりとついてくる。

スピーカを使って楽器の音を拡声してはいないので、近づいてこないと聞こえない。静かな鳴り物に静かな踊りだ。目の前に近づいてきて通りすぎ、やがて去ってゆく。まるでラヴェルのボレロのようだ。ボレロはスペイン民謡をもとにした西洋と東洋が入り混じったエキゾチックが音楽だ。

「おわら」は日本海に面した富山の八尾町が発祥の地だ。おわらには胡弓の哀愁を帯びた音色がつきものだ。胡弓は三味線とともに中国から伝わった。胡弓は中央アジアが発祥に地で、とこか草原の風雪の響きがする。洗練された踊りと楽器が醸し出す静かな雰囲気は他の民謡では味わえない「おわら」独自のものだ。奏者に聞くと胡弓をつかっている日本民謡は「おわら」と「麦屋節」くらいだという。

西放射線通りには八尾町からきた西町20人の一行が、駅前通りと隣接通りを含めた3通りには八王子芸妓組合を含めた7支部が、それぞれ二手に分かれて流し踊りをしていた。芸妓の方は編傘をかぶらず、男踊りは女の人が踊っていた。放射線通りは八王子随一の繁華街である。ネオンが輝き店先の光が通りを明るく照らしている。本来の八尾町のおわらは、通りの街灯を点けずに軒先に雪洞を並べ薄暗い雰囲気で行われる。八王子「おわら風の舞」は9月19日(土)に行われ、今年で6回目の開催だという。「おわら風の盆」は富山県八尾町に伝わる民謡で、毎年9月1日から3日まで現地で行われる。

本場と八王子繁華街とでは大分景色が異なるが、それでも「おわら」目当ての数千人の見物客が路地を埋め尽くしている。近郊の羽村、都心の文京区白山でも八尾から「おわら」の一行をよんで催しが行われているという。さすが他の地域ではそのままの「風の盆」の名前は使えない。八王子では「おわら風の舞in八王子」と称している。

わたくしは富山県福光の生まれで、小さいときから山ひとつ越えた八尾に「おわら」があることは聞いて知っていた。残念ながら、八尾の「おわら」を見ていない。わたくしの中学の英語の先生が授業中に八尾に馬にのって出かけ「おわら」見物をしてきた話を授業中よく聞かされた。またわたくしの家に同居している義母が福光にいたころ、隣の紺屋から頼まれ「おわら」の法被や着物の仕立てたことがあるといっていた。八尾と福光は直線で約20km以上も離れている。よくぞ町に一つしかない染物屋に遠いところから注文きたものだ。その紺屋も今は跡継ぎがいないので廃業しているとのこと。

てのひらを そらし闇きる 風の盆 幹治



越中おわら(豊年踊り)
          宮山県民謡おわら保存会本部
          会長 長瀬一郎
越中おわら〈解説)
●おわらの歌詞
民謡の妙は人情の二字にあり、歌詞のもつ思想性はその民謡の大切な味となる。
おわらには古謡と云われるものがあり古くから謡いつがれてきたものでその土地の味の濃いものである。然し一方歌は旅をすると云われるように全国どこにでも同じ歌詞をもつ民謡が多い。本当にその土地の香り高いものは割に少ない今日、古いものは尊く大切にすべきである。

おわらは作業唄と云われ、昔養蚕業の盛んだった土地から、桑を摘み繭から糸を繰りながら口ずさんだ八尾乙女たちの生活の滲んだものが目立つ。
ただおわらには他にない特徴的な歌詞がある。一つは五文字冠りといわれ普通の俚謡の26文字の上に五文字を冠らせて31文字にして謡うもので、この謡い方は八尾独特の味の濃いものである。

もう一つは字余りという。七七の調子を何段も重ねて長歌の形にし最後に五文字でおさまるように謡う。これは一種の曲と云うべきであろう。
歌詞はその時代性を強く反映するもので人文的に捨てがたい内容を持つ。保存会では毎年新作歌詞を募集しておわら万葉の資料としている。今日歌い残されているいわゆる古謡なるものは、長い年月の間にその土地の風をくぐり、土着化し、生活化してきたもので大切な宝であると共に、新しいものを積みあげ風土化させていくことも後世にいい歌詞を残す所以であろう。

●おわらの踊り
おわらは現在三通りに踊られている。一つ目は明治の終りごろ出来たと云われるもので器用な踊り手の即興のものを、地元にあうようにいろいろ苦心を重ねてつくられたものである。二つ目は豊年踊りの型で、男女の別なく誰でも踊れる大衆性に富み、農作業の手がとり入れられている。町流しの踊りで何百人も一つの大きな輪になって踊られる。

三つ目は昭和4年若柳流家元若柳吉三郎師によって新しい踊りが創作された。これには男子踊りと女子踊りがある。男子踊りの豪快さ直線的なきびきびした所作は青年男子の心意気にぴったり、踊り手も観るものも踊りの楽しさを十分に味わうことが出来る。女子踊りはこれ又優美そのもので、女心のやさしさ、可愛らしさをあらわし男子踊りと共におわらの醍醐味に引きこまれてしまう。然し豊年踊りにくらべて所作が一寸むつかしく大衆性にややかける感がある。
以上三つの踊りに通じて云えることは、歌と楽器と踊りとが完全に一体となってとけあう素晴らしさである。これはおわらの最もすぐれた特性の一つである。

①越中おわら(出演用)
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬八尾よいとこ おわらの本場
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
二百十日を オワラ 出て踊る
合の手
(唄われヲー わしや囃す)
¬あなた百まで わしゃ九十九まで
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
ともに白毛の オワラ 生えるまで
¬長バヤシ「七合と三合はどこでも一升だよ
一升と定まりや五合枡いらない」
(唄われヨ- わしゃ囃す)
¬おらっちゃ 小さい時ア田圃のギヤワズ
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
人に踏まれて オワラ ぎゃくぎゃくと
合の手
長バヤシ「見送りましょかよ峠の茶屋まで
人目がなければ あなたの部屋まで」
(唄われヨー わしや囃す)
¬ゆらぐ吊橋 手に手を取りて
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
¬渡る井田川 オワラ 春の風
富山のあたりか あの燈火は   
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
飛んでゆきたやす オワラ 灯とり虫
合の手
長バヤシ「どんどと流れる水道の水でも
いつかは世に出て主さんのままとなる」
(唄われヨー わしや囃す)
¬八尾坂道 わかれて来れば   
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
露か時雨か オワラ はらはらと

¬もしや来るかと 窓押しあけて  
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
見れば立山 オワラ 雪ばかり
合の手
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬八尾おわらを しみじみきけば
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
むかし山風 オワラ 草の声
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬鹿が鳴こうが 紅糞が散ろうか
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
わたしや あなたに オワラ あきがない
合の手
長バヤシ「浮いたか 瓢箪かるそに流るる
行先ア知らねど あの身になりたや」

②越中おわら〈古語)
(唄われヨー わしゃ咄す一
¬あいや可愛や いつ来て見ても
(キタサノサー ドソコイサノサーサ)
たすき投げやる オワラ 暇がない
¬たすき投げやる 暇あるけれど
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
あなた忘れる オワラ 暇がない
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬あねま何升目キ 三升目の釜イキ
(キタサノサー ドソコイサノサーサ)
あとの四升目で オワラ 日が暮れる
長バヤシ「来られた来られたようこそ来られた
来られたけれども わがままならない」

③越中おわら〈字余り)
(唄われヨー わしゃ嚇す)
¬梅干の種じゃからとていやしましゃんすな
昔は花よ
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
うぐいす止めて鳴かした オワラ こともある
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬竹になりたや茶の湯座敷の柄杓の柄の廿に
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
いとし殿御に持たれて汲まれて一口
オワラ 呑まれたや
合の手
長バヤシ「雪の立山ほのぼの夜明けだ
里は黄金の稲穂の波立つ」
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬三間梯子を一丁二丁三丁四丁
五六丁掛けても届かぬ主は
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
どうせ天の星じゃと オワラ あきらめた
(唄われゴー わしゃ囃す)
¬綾錦 輪子 羽二重 塩瀬 縮緬
郡内 緞子の重ね着よりも
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
辛苦に仕上げたる固い手織の木綿は
オワラ 末のため
長バヤシ「浮いたか瓢箪 かるそに流れる
行先ア知らねど あの身になりたや」

④越中おわら(正調)
(唄われヨー わしゃ喘す)
¬見たさ逢いたさ思いがつのる 
(キタサノサー ドソコイサノサーサ)
恋の八尾は オワラ 雪の中
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬来る春風 氷が解ける
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
うれしや気ままに オワラ 開く梅
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬唄の町だよ 八尾の町は 
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
唄で糸とる オワラ 桑も摘む
合の手
長バヤシ「春風吹こうが 秋風吹こうが

⑥越中おわら(豊年踊り)
長バヤシ「越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山三国一だよ
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬せまいようでも 広いはたもと
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
海 山 書いたる オワラ 文の宿
(唄われヨー わしゃ囃す)

¬花や紅葉は時節でいろむ
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
わたしゃ常翳の オワラ 松のいろ
合の手
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬白歯染めさせ また落とさせて
(キタサノサー ドソコイサノサーサ)
わしが思いを オワラ 二度させた
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬城ケ山から礫を投げた
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
恋の思案の オワラ 紙礫
合の手
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬仇やおろかで 添われるならば
(キタサノサー ドヨコイサノサーサ)
神にご苦労は オワラ かけやせぬ
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬二百十日に 風さえ吹かにゃ
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
早稲の米喰て オワラ 踊ります
合の手
長バヤシ「おわらのご先生ちゃあんたのことかいね
その声聞かせて 妾をどうする

⑦越中おわら(五文字冠リ)
(唄われヨー わしゃ噺す)
¬奥山の滝に打たれて あの岩の穴
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
いつほれたともなく オワラ 深くなる
長バヤシ「三千世界の松の木ア枯れても
あんたと添わなきや
婆婆へ出たかいがない」
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬白金のひかり波立つ海原遠く
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
里は黄金の オワラ 稲の波
合の手
(唄われヨー わしゃ囃す)
¬枯芝に止まる蝶々は ありゃ二心
(キタサノサー ドツコイサノサーサ)
ほかに青葉を オワラ 持ちながら
合の手
長バヤシ「三味線が出を弾きや太鼓がドンとなる
手拍子揃えておわらにしょまいかネ」

⑨名人たちのおもかげ
            橋爪儀平
¬のぞかなる春の野道に 手を引き合うて
主に心を オワラ つくづくL
¬露さえて 野辺の干草に色もつ頃は
月も焦がれて オワラ 夜をふかす
可愛いやな 今頃は

            江尻豊治
(歌われよ わしゃ囃す)
¬お前来るかと 待たせておいて
(ドッコイサノサ コレワイサノサッサ)
何処へそれたか オワラ 夏の雨
(歌われよ わしゃ囃す)
¬滝の水 岩にうたれて一度は切れて
(ドッコイサノサ コレワイサノサッサ)
流れ行く末 オワラ また一つ
「権兵衛が種まきや 鳥がほじくる
三度に一度は 追わねばなるまい」

            福島佐久一
(歌われよ わしゃ囃す)
¬富山あたりか あの燈火は
(キタサノサー ドツコイサノサッサ)
飛んでゆきたや オワラ 灯とり虫
(歌われよ わしゃ囃す)
¬見たさ逢いたさ 思いがつのる
(キタサ/サー ドツコイサノサッサ)
恋の八尾は オワラ 雪の中
「浮いたかひょうたん 軽そに流れる
行く先や知らねど あの身になりたや」

            伯 育男
(歌われよ わしゃ囃す)
¬来る春風 氷がとける
(キタサノサー ドツコイサノサッサ)
うれしや気ままに オワラ 開く梅
(歌われよ わしゃ囃す)
¬おわら踊りの笠着て御座れ
(キタサノサー ドツコイサノサッサ)
偲ぶ夜道は オワラ 月明り
「越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一だよ」

●越中おわら(解説と踊り)
越中おわらの本場八尾は富山市西南16キロ、山と水に囲まれた静かな町で県下第一の養蚕地。和名抄に記された大山郷。室牧その他の諸川がこの地で合流し井田川となって富山平野に入る谷間の衆落なので、八尾は谷尾の転化であろうという。

庄屋米屋少兵衛の尽力で八尾が町の体裁を整えたのは寛永13年(1636)。当時娘たちの口ずさんでいた座繰唄が、元禄15牛(1702)七月の孟蘭盆に始めてとり上げられ、三昧・太鼓・胡弓の伴奏で町内を錬り廻ったのが今日の廻り盆の始まり。その頃はまだ町内挙げて踊り明かすことはなかったらしい。それが毎年9月1日から3日間、町行事の風の盆となったのは明治に入って新暦に変わってからのことである。日本では孟蘭盆の仏式行事が入る前から中元の祭儀に神送りがあったので、盆という言葉が節供の意味に用いられた。それが富山県では著しくて、雨の盆、照り盆、種薪盆、虫送り盆などという。風の盆は二百十日頃の台風の神霊を送りだした豊年を希う行事。

八尾から信州その他の製糸工場に多くの女が出稼ぎをした関係上、普通の農村では見られない派手な気風が町全体にあって、殊に雪に閉された冬の間は踊りや三味線で暮らすことが多く、男が三味線を弾く遊芸の町となっていた。天保年間から明治初午までのおわらの盛時には、7月の盆前になると、三味線の皮張り職人30人余りが聞名寺の縁先で毎日張替に忙殺されたという。

また孟蘭盆会なので、人々は皆編笠を冠り、男は黒の布ころもを着た時代もあった。明治7~8年頃、風俗を乱し安眠を妨げるというので差止められ、大正初期まで不振時代が続いた。大正11年(1922)町の愛好家同志が「おわら研究会」を組織し、昭和4年全町民を挙げての「越中八尾民謡おわら保存会」に拡大、昭和26年県下の同好団体を一丸とした「富山県民謡おわら保存会」に発展、往時に劣らぬおわら祭りが八尾の最大行事として伝承されている。

風の盆3日間は、衣装その他に趣向を凝らした11支部の町民が歌い踊りながら町通りを練って廻り、夕方になると聞名寺に順次くりこんで、本堂の広縁を舞台に、数万人の見物の前で披露踊りをした後、広縁から庭先の太子堂へ架した橋を渡って帰りながら町へ繰り出して行き再び町通りを深夜まで練り廻り、四つ角の広場では徹夜で踊る。こうして3日の晩までは昼夜おわらの唄と踊りに明け暮れる。

歌詞は古謡のほかに詩人文人に依頼したものや毎年の一般募集に当選したものなどで豊富。「浮いたか瓢箪・・・・・・・」などの地口式の後囃しにユーモアを感じさせる。現在の節過しの座繰唄当時の原調より飛躍的に進歩し技巧の極致に達しているといってよい。明治期の江尻半兵衛は原調を今日の節廻しに改良した一人、その子豊治は大正昭和期の代表的美声歌手で同じく曲調に一時代を劃した。保存会は品位ある歌い方の伝統保持に努め、所属会員の興行出演を禁じ、素人のど自慢に出ることさえ喜ばない。

伴奏楽器も三味線・太鼓のほかは、当世流行の尺八を加えず昔ながらの朗弓を用いている。踊りは3種類ある中の種蒔が古来の踊り方。これが種蒔・宙返り・稲刈の三つに分れる。大正2年冨山市の共進会余興出演の時に半兵衛の妻せきが踊師匠で振付け、その後数回改良を加え、大正5~6年頃現在の踊りが完成した。「おはら」の名は鹿児島越中・津軽が知られているが、三者の曲調などに直接の関係はない。越中は大止初期に東京浅草へ進出した芸人小原万龍のものと区別するためオハラをオワラと改めたとの言い伝えがあり、津軽は成田雲竹氏が全国に有名になるようにと他の二つにあやかって名づけたもの。

「風の盆」CD抜粋:富山県民謡おわら保存会