2007年6月 岩手の桜

連休前半の4月28日から5月1日まで、岩手の友人の案内で宮沢賢治(1896-1933)ゆかりの地を訪ねた。仙台まで新幹線で行き、そこから車で北上した。市街地から泉で高速道路にあがり古川を経て岩手県一関に入る。所要時間は約1時間半、距離にして約100km位、宮城県県下の6割以上を車で走ったことになる。車窓からみる風景は低い丘陵がひろがり、水田の一部では代掻きが始まっている。木々はまだ芽吹いていない。一関で高速道路をおり、地元の蕎麦屋に入って昼食をとる。店内は夫婦連れや作業衣の人などでほぼ満席。てんぷら蕎麦を注文し番号札を受け取る。40分位でようやくそばにありつく。一人前にしては量が多いが、麺は太くてしっかりしており素朴な味だ。

岩手県の地形を鳥瞰すると、西側は奥羽山脈、東側は幅広い北上山地が北から南に連なる。その間が北上盆地を形成している。岩手県全体に降った雨の大半は、山間の数知れない細流となって北から南に貫通する北上川に注ぐ。一関は小盆地を形成し、北上川支流の磐井川がその中央を流れている。北上川は、ここから下流に向け山地に阻まれ川幅が狭くなる。過去の幾多の暴風雨が通過した際に、北上川が増水し磐井川に逆流して堤防が決壊して一関市を中心に濁流下に沈む大被害を起こしたことがあった。現在の磐井川は川幅を広げ遊水地を設けている。

磐井川両岸に桜並木のところがあり満開である。途中、厳美渓から平泉と達谷窟へと立ち寄る。いずれも渓谷や山間のためか桜は五分咲き程度だった。中尊寺に戻り、東に向かい今泉街道を通って室根山麓の大東の友人宅まで行き、そこに世話になった。

翌日、水沢から高速道路にのり盛岡に向かう。沿線に広がる田んぼはまだ田起こしされたままで水が入っていない。このあたりは水温が低いので、他に比べて代掻きが遅いという。花巻を過ぎ盛岡に近づくあたりから、正面に山襞がえぐられ雪を冠った南部富士と異名をとる岩手山(2,041m)が迫ってくる。東半分が険しく西半分がなだらかな稜線をもつ、圧倒的な存在感がある独立峰だ。東北人の性根を体現しているような山である。岩手山や高原を愛した賢治には次の詩がある。

岩手山
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの微塵の系列の底に
きたなくしろく澱むもの

高原
海だべかど おら おもたければ
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪(かみ)毛(け) 風吹けば
鹿(しし)踊りだぢやい

賢治は、学生時代に三十数回岩手山に登っている。盛岡で高速道路をおり小岩井農場に向かう。門柱が立つ広い入口から農場の中に入ると、昭和初期に建てられた古い牛舎が散在していた。ここは、総面積が約2,600ha、標高200~600mの丘陵に西洋式農法と近代的植林、種鶏・洋種畜産業などによって、わが国に珍しい牧畜のメッカとして今日に至っている。。賢治は農場と周辺の景観を好んで幾度も訪れた。賢治は当時入ってきた西洋音楽を好み、沢山のクラシックレコードを収集した。賢治はモーツァルトよりベートーヴェンを好み、その第6番田園交響楽の曲想から影響を受けたという591行の長詩「小岩井農場」を詠んだ。牛舎の奥の林に小流れがあり、潅木に囲まれ牧草が生えている広場に賢治の石碑が建てられてある。

小岩井農場 パート1の一部
すみやかなすみやかな万障(ばんしょう)流転(るてん)のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起(けいき)するといふことが
どんなに新鮮な奇跡だろう

そこを抜けると岩手山を背景に、緑鮮やかな牧草におおわれた丘の中に樹齢100年といわれる一本桜が立っている。牛が直射日光を好まないために、日除け用にこの桜が植えられたものという。開花が遅れまだ咲いていなかった。

春になって日差しが強まってくると、山の雪が解けはじめ、田んぼの地温が上がってくる。吹く風は冷たくてもあちこちの山里では桜が咲き始める。農家では水田の代掻きなどの農作業が本格化する。日本に水田耕作が伝わって以来、桜は春の代表的な景物とし特に日本人に親しまれている。桜は日本の伝統文化を象徴するものとして国花にもなり、詩歌に沢山詠まれている。しかし、満開の桜にしても一枝の桜にしても、およそ個性というものがない。そこには平凡の極みを見る。日本人が好きな富士山は、同じ茫洋たる凡俗の中にも時候よって千変万化の美があり、多くの文人を惹きつけてやまない。

賢治の詩や童話などの作品には桜があまり出てこない。桜はあまりにも詠みつくされ象徴的な意味を持ちすぎているので興味を示さなかったものだろうか。芸術家は一般に先人の知恵に学んで新しい作品をつくりあげるが、賢治は、詩歌における伝統を拒絶して「農民芸術概論」で主張しているような古今独歩の世界を創りあげた。このあたりに世界的な作家ともといわれる賢治の秘密の一端があるのではないだろうか。

小岩井農場を後にして再び高速道路にのり花巻に向かう。花巻で高速道路をおり、花巻空港の脇を通って花巻新渡戸稲造記念館に行く。新渡戸稲造(1862-1933)は南部藩士新渡戸十次郎の三男として盛岡市で生まれた。稲造の先祖は武術・兵学と新田開発を行い、南部藩の軍事・財政に寄与した。敷地内に新渡戸観音堂があり、稲造は神仏に対する崇敬の念が高かった。稲造という名は、先祖が稲を大事にして地域に貢献したことからつけられたという。

稲造は、この背景から農学をこころざし明治新設された札幌農学校に内村鑑三らと進んだ。稲造は農学者、女子教育者、ジャーナリストとして国際連盟事務局次長まで務めた。英文で書かれた「武士道」は名著として知られている。弟子にはのちの東大総長となる矢内原忠雄や南原繁らがいる。矢内原は「内村鑑三から神を、新渡戸稲造から人を学んだ」といった。渡戸稲造全集24巻の著作があり、賢治と共に岩手県の生んだ偉人である。この記念館は、ここに稲造の先祖が居住して地域に貢献したことと稲造の業績を記念して建てられている。瀟洒な記念館は山裾の田園の中にあり、静かなたたずまいをしていた。

そこから程近いところに宮沢賢治記念館がある。道路脇にも駐車場があったが車で坂道を登り小高い丘の記念館の駐車場に着いた。正面に「注文の多い料理店:山猫軒」がある。童話では山猫が人間に食事の注文をだしているが、ここでは童話にちなんだ食事を出してくれる。入館時刻は午後3時半頃だったが、館内は家族づれや若い人で賑わっていた。

イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
(『「注文の多い料理店』広告文より)

館内には賢治の書いた原稿、生い立ちや生涯の足跡が展示されていた。賢治の存命中には「注文の多い料理店」や「春と修羅」など数点しか出版されなかったが、死後6回も各10巻前後の全集が編集されている。また、特別展として「フランドン農学校の豚」の荒筋が人形で使って展示されていた。校長が豚から死亡承諾書をとるという物語である。ヒトの身勝手な肉食を鋭く批判している。賢治は浄土真宗の信仰の厚い家庭に生まれ、人一倍感受性が強く、他人に対して強い哀憐の情があった。盛岡高等農林学校を受験する前に法華経に出会い、晩年までその信仰を貫いた。

賢治は詩人・童話作家、農業従事者、科学者、信仰者という側面を同時にもっていた、真の天才だった。賢治は死後にも自分の思いを世に伝えたいとして、死の直前まで壮絶なまでに作品の推敲を続け、37歳の若さで亡くなった。死後70年以上を経て、今や子供から大人までますます慕われる国民的作家となった。

岩手は寒冷地の上に、農地は火山灰地の酸性土壌で稲作条件がわるい。14世紀半ばから19世紀半ばにかけて小氷河時代があり、中でも江戸時代には四回も大飢饉を引き起こしたような凶作が恒常的に起きた。その結果、人びとは貧しく、仏教、土俗信仰などに救いを求めた。賢治の生きた時代でも度々凶作がおきている。

賢治は、花巻農学校の教師をしている間に生徒から農家の実態を知らされ、教師に安住していることを恥じて依頼退職(30歳)をする。自ら農耕し、学習し芸術を楽しむ共同組織、羅須地人協会をつくる。農村を駆け巡り農民の肥料相談などに応じていた。病気がちな体で十分な食事をせずに、無理がたたり命を縮めたのだった。

3日目朝9時半、大東を出発し陸前高田から遠野に向かう。途中気仙坂を通る。昔、民謡「気仙坂」に七坂、八坂、九坂、十坂とうたわれた交通の難所である。唄の中の「鉋をかけてたいらめた」とあるが気仙沼は宮大工を輩出したところでもある。その昔、都と工芸やなどで交流があったものか。また、ここは塩の道ともよばれ、海と内陸をつなぐ生命線でもあった。最大の難所の笹の田にループ橋がかかり、数箇所のトンネルを通って楽に通れるようになっている。

遠野に着いたのが12時過ぎ、大東から約2時間半を要したことになる。遠野は深い山に囲まれた盆地である。遠野駅から北東方向約5kmの地点に伝承園がある。園内には国の重要文化財南部曲り家や御蚕神堂(千体オシラサマ)があり、そこに佐々木喜善記念館が併設されている。曲り家は母屋と馬家が一体となったL字型建物で、南側に突出した馬家となり、そこから中に入ると真っ暗で一瞬目がくらむが、だんだん目が馴れてくると家の中のものが見えてくる。昔の岩手の農家は馬と日々の苦労を共にしたので、家族同様に同じ屋根の下で生活をしていた。

鉄道が開通していなかった以前の遠野は、四方から交通が隔絶したために外部からの人の流入が少なかった。炉辺では夜になると祖母から孫へ昔話が語られた。これが民話として伝えられ数多く残っている。民俗学者柳田國男は、佐々木喜善にとの出会いにより地域に伝わる昔話を聞いて名作「遠野物語」にまとめた。

喜善はそれを契機として民俗学に啓発され、ひとり古老を訪ね昔話をひろく蒐集した。また、喜善は晩年賢治とも交流があり、信仰や霊界に関心をもっていたようだ。原日本人といわれる縄文人は人間も自然の森羅万象の一つとしてとらえた。その末裔である賢治は、すべてのものに命が宿り「みんな昔からの兄弟」と考えた。自然に対する見方では賢治と喜善に共通点するものがあった。

遠野の桜は、小岩井農場の一本桜と同様、まだ咲いていなかった。桜の咲く時期は地理的条件により大きく異なる。遠野は、南部に位置しているが山深い盆地のためか、岩手の中でも一番春が遅くなるのではないだろうか。

北上を せばめる関や おそさくら 幹治
みちのくの 人のけはいの さくらかな 幹治
岩手山 あおぎ一本 さくらかな 幹治

余録

岩手の旅で感じたことは、岩手県は広い(四国4件の大きさに相当)、山が深い、全県に降ったほとんどの雨が北上川だけに集まっている。(こうゆう例は全国でも珍しい)若い人(総人口1,372,751人:2007年2月現在)が少なく、過疎化が進んでいるようだ。現在、全国の休耕地が全耕作可能面積の3割から4割を占めるといわれている。この岩手でも同程度の値と思われる。友人は、夏にオホーツク高気圧が居座りやませが吹くと、寒さで稲の稔りの少なくなることがある岩手の貧しさについて語ってくれた。

この休耕地がガソリンに代わるバイオマスエタノール(注)や家畜の飼料用の米栽培に当てることができたら、ここに新たな産業が起こって若い人が戻ってくるかもしれない。それが地球温暖化対策の一助になって、ふと賢治の果たせなかった、疲弊している農村救いたいというイーハトヴの夢がかなうかもしれないと思った。

注:バイオを用いた燃料はバイオ燃料またはバイオマスエタノールとよばれる。バイオマスは有機物であるため、燃焼させると二酸化炭素が排出される。しかしこれに含まれる炭素は、そのバイオマスが成長過程で光合成により大気中から吸収した二酸化炭素に由来する。そのため、バイオマスを使用しても全体として見れば大気中の二酸化炭素量を増加させていないと考えてよいとされる。この性質をカーボンニュートラルと呼ぶ。
化石資源に含まれる炭素もかつての大気中の二酸化炭素が固定されたものだが、化石資源が生産されたのは数億年も昔のことであり、現在に限って言えば化石資源を使用することは大気中の二酸化炭素を増加させている。従って、化石資源についてはカーボンニュートラルであるとは言われない。
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参考資料
おれたちはみな農民である ずいぶん忙しいし仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一つに意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
宮沢賢治 農民芸術概論綱要 序論